一種の責任論

長いし,悲しいことに言及するので文章は見たい人は見てください。
この日は悲しくて不幸なことがありました。
サ−クルと学科の後輩が残念なことになってしまいました。


僕はとある合唱団で団長をしていた時期があります。
僕は「人がいっぱいいる合唱団にしたい!」と思って自分としては一生懸命勧誘していました。
幸運なことにびっくりするほど人が入団して来ました。
最初は何をするにも楽しくて,主観ですが皆も楽しそうでした。


夏が過ぎると,サークルが楽しくない・不満を持つようになる人がたくさん出てきました。
演奏会の日まで僕は本当に一生懸命頑張りました。
でもなかなか解決しませんでした。


その後輩は,頑張っていた秋の新勧で入団してきた人でした。
その年は女声が少なく,後輩は一年生なのにとても苦労してました。
同性の同輩も少なく本当に大変だったろうと思います。


悩み始めたある夏の日のこと,僕は一冊の本を手に取りました。
マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』という本でした。


職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)


その本は薄いのにとても内容の濃い本でした。
その中でその頃の僕に深い印象を与えたことがあります。
「心情倫理」,「責任倫理」という概念(理念型)でした。
「心情倫理」とは純粋な心情から発した行為の結果が悪ければ,その責任は行為者ではなく世間や他人の愚かさやこういった人間を作った神の意志にあるという考え方。
これに対して「責任倫理」というのは人間の平均的欠点のあれこれを計算に入れて,自分の行為の結果が予見できた場合,その責任はほかのものに転嫁できないとする考え方。
ヴェーバーは理念型(極端に合理化を図った概念)としてこの2つを提示してました。
大体,普通の人はこの2つがいろんな割合で混ざっていることになります。


つまり,悩んでいる僕というものはある意味責任を放棄をしているかつ自己欺瞞としてその自分を美化しているのだと気が付きました。自分の運命や周りの状況を考え,なんて自分は不幸なんだろう,かわいそうなんだろうと思っているに過ぎなかったのです。
僕はいろんな意味で激しくショックを受けました。
悲しんだり悩んだりすることは,合理的に考えると僕の団長としての目標の「楽しい合唱団,人の多い合唱団」に悪い影響を与えることはあれ実際的には何の解決も与えないのか!
それから,僕は人前で悩んだり悲しんだりするのはやめました。そんな暇があったら,冷静にものを見つめて何か問題を解決するほう,周りの雰囲気を良くする方へ動こうとしました。


埼玉に行くとき,宇都宮線に乗りました。
僕は団長時代よく電車で泣いていることがありました。
おばさんに慰められた日もありました。
昼から電車で泣いている人って怪しいもんなあ(笑)
単純にこの上のようなことを考えながら行動するのはつらいんですよね。
そんなことを思い出しました。


その後もサークルではいろんなことがありました。
僕はサークルに6年いることにしました。
自分のなかで団長時代に自分の入れた人,団長時代に自分のしたことの責任をとろうと思ったからです。それは一種の自己欺瞞なのですがね。
なかなか,頑張っても解決できないことはたくさんありました。自分が力になれない問題がありました。でも,頑張ってみようと思いました。自分では分からないけど,周りの人には良くないことをしたこともあったでしょう。


でも一生懸命考えて,それでもしなくちゃいけないこととかどうしても正しいことがあったら責任を持ってやらなくてはいけないと僕は思います。というか,そうするしか現状を良くする方法はないのです。でも後輩の苦しみを軽くする行動はしていたか,なにかできることはなかったか,そういう思いは今でも消えません。


あの日,僕がしたことがあの年団長をやった者としてのせめてもの後輩への償いでした。
僕の中では,僕はいつまでもあの年の団長なのです。
ある意味であの年したことのうち,人に悪いことをしていたとしたら(僕に悪気がなくても)一生免罪されることはないのです。
責任ってそういうことなんだろうなあと思います。


以上のような信条はたんなる個人のわがままなんだよね。
この信条が人の迷惑じゃなくて人のためになるようにしたいなあ。
今でもいつもそう思っています。
世の中が平和で,みんな仲良くできるといいなあ。
長くなりました。では。